ドヴォルザーク (1841~1904 チェコ)祖国への曲を世界へ

2020/06/28
 
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Antonín Leopold Dvořák  アントニーン・レオポルト・ドヴォルザーク

Free-Photos / Pixabay

生誕 1841年9月8日

オーストリア帝国 ネラホゼヴェス

死没 1904年5月1日

オーストリア=ハンガリー帝国 プラハ

ロマン派 国民学派 ボヘミア学派

チェコ人は音楽が大好き。

生家は肉屋と宿屋を営んでいた。父親のヴァイオリンや

簡単な舞曲を作曲して演奏することもありました。

また、近所の町でやはり肉屋を経営していた

伯父もトランペットの名手として知られていました。

小学校の先生に、ヴァイオリンやピアノを習い、教会の聖歌隊でうたい、

村のおまつりでは 父と一緒に楽団で演奏もしていました。

父親は長男であったアントニンには肉屋を継がせるつもりであったのですが、

先生が熱心に説きふせてくれました。

16歳ヴァイオリンをかかえて、プラハの音楽学校へ

ヴェートーベンモーツァルトの音楽、そしてワーグナーのオペラを観ました。

 

卒業後は、楽団にヴィオラ奏者として入団、作曲もはじめました。

ボヘミアのあたたかさがつたわります。

やがて新しくできた仮劇場のオーケストラのヴィオラ奏者となりました。

仮劇場はチェコ語でオペラができる チェコ人が待ちに待った劇場です。

1866年、このオーケストラの指揮者としてベドルジハ・スメタナが迎えられ、

本人の指揮で演奏することができました。

32歳で結婚、劇団を辞め 作曲中心の生活になりました。

オーストリアのウィーンで活躍する有名なブラームスが、ドイツの大きな

音楽出版社に推薦してくれました。

3年後出版されると、ドヴォルザークの名はヨーロッパにしれわたるのでした。

 

スメタナの影響をうけ、ドヴォルザークが広めた

チェコ国民派最大の作曲家  チェコ国民音楽の父 といわれます。

 

また ブラームスにも強く影響を受けています。

古典的なドイツ音楽も構成と、チェコの民族的メロディーと奥深く味わいのあるものに

なっています。

50歳ごろ、プラハ音楽院の作曲家の教授となっていました。

そして アメリカ ニューヨーク・ナショナル音楽院の創立者・理事長ジャネット・サーバーから

ドヴォルザークに音楽院院長職への依頼が届きました。

迷い辞退の意志を伝えましたが、招待は何度もくりかえされました。

熱心な説得を受け、ドボルザークはアメリカに行くことを、決心しました。

アメリカで作曲した 交響曲第九番 新世界より は人気が高く名曲です。

この曲の第二楽章は日本語の歌詞が 家路 として親しまれています。

 

チェコフィルハーモーニー管弦楽団、チェコの首都プラハ本拠となるホールはプラハの

「芸術家の家(ルドルフィヌム)」内にあるドヴォルザーク・ホール

では自信も指揮をしたことがあります。

 

三大交響曲

ベートーヴェンの  運命

シューベルトの   未完成

ドヴォルザークの  新世界より

 

 

主な作品

交響曲第9番  新世界より  (1893年)

弦楽四重奏曲第12番  アメリカ  (1893年)

ピアノ曲集  8つのユーモレスク  (1894年)ヴァイオリン曲にも編曲

チェロ協奏曲  (1895年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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