シューベルト (1797~1828 オーストリア)友達も多かった 歌曲の王
Franz Peter Schubertフランツ・ペーター・シューベルト
生誕1793年1月31日
出身地 神聖ローマ帝国 ウィーン
死没1828年11月19日
オーストリア帝国 ウィーン
ロマン派音楽
多くの友に愛された
歌曲の王フランツ・ペーター・シューベルト
教育者の家に生まれました。お父さんは町の学校の校長です。
音楽好きのお父さんは、いろんな楽器を教えました。
5歳でヴァイオリンを習います。
フランツは7歳ごろになると父親の手に余るほどの才能を発揮しました。
教会のオルガン奏者聖歌隊ミヒャエル・ホルツァー先生のところで、専門の指導をうけました。
素晴らしい才能に聖歌隊の仲間たちは、その才能を認め尊敬していたみたいです。
ベートーヴェンさんみたいな作曲家になりたい と 言っていたそうです。
シューベルトは一般的にロマン派の枠に入れられるが、その音楽、人生はウィーン古典派の強い影響下にあり、記譜法、基本的な作曲法も古典派に属している。貴族社会の作曲家から市民社会の作曲家へという点ではロマン派的であり、音楽史的には古典派とロマン派の橋渡し的位置にあるが、年代的にはシューベルトの一生はベートーヴェンの後半生とほぼ重なっており、音楽的にも後期のベートーヴェンより時に古典的である。
同様に時期的にも様式的にも古典派にかかる部分が大きいにもかかわらず、初期ロマン派として挙げられることの多い作曲家としてカール・マリア・フォン・ウェーバーがいるが、シューベルトにも自国語詞へのこだわりがあった。ドイツ語オペラの確立者としての功績を評価されるウェーバーと比べると大きな成果は挙げられなかったものの、オペラ分野ではイタリア・オペラの大家サリエリの門下でありながら、未完も含めてドイツ語ジングシュピールに取り組みつづけた。当時のウィーンではドイツ語オペラの需要は低く、ただでさえ知名度の低いシューベルトは上演機会すら得られないことが多かったにもかかわらず、この姿勢は変わらなかった。教会音楽は特性上ラテン語詞の曲が多いものの、それでも数曲のドイツ語曲を残し、歌曲に至っては9曲のイタリア語曲に対しドイツ語曲576という比率となっている。
「ドイツの国民的、民族的な詩」に対し「もっともふさわしい曲をつけて、本当にロマン的な歌曲を歌いだしたのはシューベルトである」とし、ウェーバーらとともに、言語を介した民族主義をロマン派幕開けの一要素とする見解もある。