シューマン (1810~1856 ドイツ)ピアニストを諦め作曲家に
2020/06/29
死没 1856年7月29日(46歳)
プロイセン王国 エンデニヒ
ロマン派
自然にあふれた、ドイツのツヴィッカウにシューマンがうまれました。
シューマンの母ヨハンナも、ピアノで軽い旋律を弾いたりしていました。
母がシューマンの音楽の才能に気づき、ピアノと作曲を学ばせました。
口数が少なく、一人で物思いにふけてり、空想が好きな少年でした。
ピアノ教師のフリードリヒ・ヴィークに出会いました。
ヴィークのピアノ指導は厳格な上に過酷ですが、シューマンは母親に手紙を書いて許可をもらい
練習を行うが 無理なやり方で 指に力がはいらなくなりました。
1834年はシューマンにとって一大飛躍の年となる。44年までの10年間、自ら単独主筆となる『音楽新時報』を創刊して、当時の音楽ジャーナリズムに新風を注ぎ込むかたわら、創作面での『交響的練習曲』と『謝肉祭』の完成がピアノ音楽史上に一線を画する新様式の作品として、新たな時代の出発点となるのである。こうして創作と評論活動が軌道に乗り始める1835年ころから、いまや天才少女ピアニストとしての名声をすっかり確立した16歳になる師の娘クララに恋愛感情を抱くようになるが、ウィークは2人の恋愛を厳しく禁じた。こうした試練のなかでシューマンは36年から38年の間に、最高傑作と評されるピアノ曲のほとんどを生み出している。『幻想小曲集』『子供の情景』『クライスレリアーナ』などがこの期の作品である。