ドビュッシー (1862~1918 フランス)自分の才能を信じた

2020/06/29
 
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Claude Achille Debussyクロード・アシル・ドビュッシー

生誕 1862年8月22日

フランス帝国 サン=ジェルマン=アン=レー

死没 1918年3月25日(55歳)

フランス共和国 パリ

パリ音楽院

 

 

1872年10月22日、わずか10歳でパリ音楽院に合格しました。最年少で奨学金までもらうこができました。

歴史のある パリ音楽院では、伝統的な教育をしていました。それがドビュッシーにはあいませんでした。

18歳の頃、貧しかったドビュッシーにアルバイトを紹介してくれました。

フォン・メック夫人の長期旅行にピアニストとして同伴し 旅の間にロシア音楽をたくさんききました。

 

フランスやドイツの音楽にはない美しさがある。

 

旅行から帰ると作曲法クラスで勉強します。

22歳 フランス芸術院の主催する ローマ賞コンクール作曲部門で

ローマ大賞を受賞しました。

その後大賞受賞者の義務としての2年間のローマでの創作活動を行える名誉ある賞です。

ローマ郊外の歴史と伝統のある メディチ荘

絵画 彫刻 版画 作曲 建築と才能ある芸術家たちのあこがれの場所です。

しかしドビュッシーにとっては規則にしばられるのがいやで窮屈でした。

ローマに留学していた頃に生み出された作品は、いくつかの歌曲や交響組曲『春』、

1889年は27歳のドビュッシーにとって大きな転機の年となる。1月には国民音楽協会に入会

6月にパリ万国博覧会がひらかれました。

翌年詩人ステファヌ・マラルメに声をかけられ、この時の体験はのちにマラルメの詩による歌曲(『ステファヌ・マラルメによる3つの詩』)や、

『牧神の午後への前奏曲』を作曲します。

28歳のとき、名前を「アシル=クロード」から「クロード=アシル」に変えました。

19世紀終わりのフランスは 見たものからの印象をそのまま表現する印象主義絵画から、

ほかの芸術にも広がりました。

ドビュッシーはそれを音楽に取り入れたとして知られています。

感じ取った印象を音楽としてうみだしたのです。

楽曲海 は 海の見せる 水や光、風、雰囲気を表すことをし、

自由な音でイメージさせました。

印象主義の音楽家とされていますが、

実際は象徴主義、内面的世界を表現しようとする文学に影響を受けていたので、

詩人の集まりにも参加し、刺激を受けたくさんの 作品がうまれました。

あとに続く音楽家にもおおきな影響をあたえました。

 

 

 

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