ドビュッシー (1862~1918 フランス)自分の才能を信じた

Claude Achille Debussyクロード・アシル・ドビュッシー
生誕 1862年8月22日
フランス帝国 サン=ジェルマン=アン=レー
死没 1918年3月25日(55歳)
フランス共和国 パリ
パリ音楽院
1872年10月22日、わずか10歳でパリ音楽院に合格しました。最年少で奨学金までもらうこができました。
歴史のある パリ音楽院では、伝統的な教育をしていました。それがドビュッシーにはあいませんでした。
18歳の頃、貧しかったドビュッシーにアルバイトを紹介してくれました。
フォン・メック夫人の長期旅行にピアニストとして同伴し 旅の間にロシア音楽をたくさんききました。
フランスやドイツの音楽にはない美しさがある。
旅行から帰ると作曲法クラスで勉強します。
22歳 フランス芸術院の主催する ローマ賞コンクール作曲部門で
ローマ大賞を受賞しました。
その後大賞受賞者の義務としての2年間のローマでの創作活動を行える名誉ある賞です。
ローマ郊外の歴史と伝統のある メディチ荘
絵画 彫刻 版画 作曲 建築と才能ある芸術家たちのあこがれの場所です。
しかしドビュッシーにとっては規則にしばられるのがいやで窮屈でした。
ローマに留学していた頃に生み出された作品は、いくつかの歌曲や交響組曲『春』、
1889年は27歳のドビュッシーにとって大きな転機の年となる。1月には国民音楽協会に入会
6月にパリ万国博覧会がひらかれました。
翌年詩人ステファヌ・マラルメに声をかけられ、この時の体験はのちにマラルメの詩による歌曲(『ステファヌ・マラルメによる3つの詩』)や、
『牧神の午後への前奏曲』を作曲します。
28歳のとき、名前を「アシル=クロード」から「クロード=アシル」に変えました。
19世紀終わりのフランスは 見たものからの印象をそのまま表現する印象主義絵画から、
ほかの芸術にも広がりました。
ドビュッシーはそれを音楽に取り入れたとして知られています。
感じ取った印象を音楽としてうみだしたのです。
楽曲海 は 海の見せる 水や光、風、雰囲気を表すことをし、
自由な音でイメージさせました。
印象主義の音楽家とされていますが、
実際は象徴主義、内面的世界を表現しようとする文学に影響を受けていたので、
詩人の集まりにも参加し、刺激を受けたくさんの 作品がうまれました。
あとに続く音楽家にもおおきな影響をあたえました。